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2005.11.16

ソウルで取材を受けた朝鮮日報の記事

ソウルで取材を受けた朝鮮日報の記事がウェブ上で見られます。
、この記事を今回ソウルでお世話になった難波幸司さんが翻訳してくれたものを、以下に記しておきます。
http://www.chosun.com/se/news/200510/200510260265.html
内容を見ると、所々事実と違うところがありますが、まずまずの記事ではないかと思
います。

・・・・・・・・以下朝鮮日報記事・・・・・・・・・
‘全盲の美術家’ 光島貴之
2005年10月26日 夕刊
記事;リュウ・ジョン
写真;キム・ヨンフン

(目をつむって他の作家の作品を触っている写真についたキャプション)/
指先で隅々まで触ることで世界のシルエットが闇の中でゆっくり現われる。そこに
‘想像’という模様を刻む

光島貴之(51)氏の絵を見るとパブロ・ピカソを思い出す。横顔の向こうに隠れた一方
の目が鼻の横に捉えられていて、ワイングラスの丸い底はグラスの下にタイヤのよう
にくっついている。様々な角度から見た事物の模様を平面にそのまま広げたパブロ・
ピカソのキュービズム技法を模倣したのだろうか?

光島氏は“パブロ・ピカソを見た事がない”。先天性緑内障を患い0.02の視力で目の
前の世の中だけを見てきた後、10歳で視力を完全に失ったからだ。遠近や影がない
彼の絵はたびたび‘パブロ・ピカソみたいだ’という声を聞く。

視覚障害者のための‘指先で見る展覧会(20~26日)’に参加するためにソウルを訪れ
た光島氏に会った。光島氏は 98年日本長野アートパラリンピックで立体部門大賞を
受けた後、アメリカ、サンディエゴの展覧会(2004)に参加するなど現代美術界が注目
している美術家。

(‘森’の立体コピーの前で撮った写真につけられたキャプション)/
光島氏が‘森’というタイトルで発表した絵を立体コピーしたもの。森を想像しにく
く直接触って見た幹、根、切り株、木の葉を描いて集めた

国内で視覚障害を持つ美術家はいない。口と足で絵を描く画家は多いが、全盲の画家
は知られていない。視覚障害者のための美術教育の不在のせいだ。日本では 30年前
から市民団体と一部美術界で視覚障害者のための‘触る絵本’の運動を継続的に展開
している。‘触る絵本’は視覚障害者のために布切れ, テープ, 玉など質感ある素材
で作った立体絵本だ。 おかげで光島氏のような美術家が誕生しえた。

見れないのにどうやって描くか? 目をつむって何でも描いてみれば少しは理解し易し
くなる。見る代わりに触らなければならないし、色はただ想像しかできない。描いた
線をつなぐのが難しいし、遠近と大きさに対する空間感は漠然としてくる。

光島氏はそのやり方ですべての感覚を動員して感じたそのまま絵を描く。彼の絵は木
やその他の模様の具象画になったり、凉しい風や水音を表現した抽象画になったりす
る。絵の具代わり触ることができるカラーテープや紙を使う。色を読んでくれる機械
は色の選択を手伝ってくれる。

“君は本当に絵が下手だ”

幼い光島氏は常に冷やかしを受けた。1m前がやっと見える彼の絵は歪んだ線が行き
交っていて、写実的なものが芸術だと感じられる子供達にとってはこっけいに見えた
ようだ。その後、絵が嫌になった。‘すべてのものを触って見なさい’と外で遊びま
わらせてくれたお母さん、“すべてのものを両手で感じなさい”と教えた盲学校の先
生のおかげで視覚に劣らない指先の感覚を持つことになったが、絵は相変らず遠かっ
た。図緑はつるっとしていて何も感じられないし、作品は進入禁止のマークにより閉
ざされていた。

(‘赤い目’の写真につけられたキャプション)/
口や耳、頬骨、力強い曲線が軽快だ
(‘アベック’の写真につけられたキャプション)/
光島氏が自分の手を引いてくれる人の歩調に合わせて歩く姿を表現した
(‘缶コーヒーを飲む’の写真につけられたキャプション)/
缶コーヒーを飲む手と口、蓋がひらいたような缶

普通の視覚障害者がそうであるように光島氏も鍼灸師になった。大学卒業後、一般の
学校教師になりたかったが、現実は厳しかった。鍼灸院の運営を始めた二十八歳のと
き、東京のある展覧会で‘触る絵’に出会ったのは幸運だった。‘美術観賞’という
趣味が一つ生まれたからだ。

10年間作品を触って感じるということばかりしてきた。この世に存在する形状と感情
を表現する方法を身に付けようとあせることはしなかった。そして92年、視覚障害者
のための一ワークショップで粘土でピーマンの模様を作ってみたことをきっかけに粘
土造形を始めた。‘独特だ’‘おもしろい’という評価を聞けた。イギリスの全盲の
彫刻家フラビオ・ティトロにヒントを得て製図用テープで絵を描いたのはそれから3
年後。テープは鉛筆とは違い絵の凹凸がそのまま残っているので、描いた跡を触って
把握できる。

頭では否定していても、胸の中で常に隠し持っていた光に対するあこがれ。皮肉にも
彼は作品で評価を受ける美術作業を通じて劣等感を忘れるようになった. “見えない
ことも一つの文化だ” 誰も描くことができない絵を描くことができるからだ. 彼は
そのふたつの文化を疎通させるために力をつくしている。一般人はアイマスクを使っ
て絵を描いてみる体験をし、光島氏は彼らが描いた触覚絵画を通じて見える文化に会
う機会を作っていく。“私は常に見られることに慣れています。しかし絵を通じて私
も他人を見ることができるようになりました。他の人々が表現した絵を触りながら、
ある瞬間、私は彼らを見るのです”
・・・・・・・・・記事ここまで・・・・・・・・・・・・

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2005.11.07

ぼくは、「美術の中のかたち」とこんな風につきあってきた

兵庫県立美術館の季刊誌『アートランブル第8号』に掲載していただいた原稿です。

■ぼくは、「美術の中のかたち」とこんな風につきあってきた

東京に、さわる美術館「ギャラリーTOM」ができた1984年頃から、美術作品、特にさわれるものを探し求めて、野外彫刻展などを散策していた。美術館にも足を運び、さわれそうな彫刻などをなんとかして手にしたいとあせっていたが、館のハードルは高かった。イサム・ノグチの石彫を、白い手袋をして京都の近代美術館でさわったのも、御堂筋の道路沿いに設置されたボテロの『踊り子』を木枯らしの中でかじかむ手でさわったのもその頃だった。

まもなく、名古屋市美術館や、兵庫県立近代美術館でさわれる企画展が始まった。ぼくは、とてもはしゃいだ気分になってそれらの展覧会を訪れた。いまでも覚えているのは、92年の「美術の中のかたち」だ。田中昇さんの石の作品をさわって、その印象を文章に残していた。ぼくは、見えないということにこだわっていた。拙文を紹介しながら、その当時を振り返ってみたい。

■手の中の虹
館内には、小学生の団体が来ていた。

ぼくが、気にいった『虹』という石の作品をゆっくりさわっていると、小学生らしい団体がガヤガヤと入ってきた。
「さあ、みんなさわって、さわって」
という指導員らしい人の声にはあっけにとられてしまったが、暫くしてその中の2、3人がぼくに近寄って来て、子どもどうしでなにやらヒソヒソ話をしている。

まもなく、その中のひとりが、「なにしてんの?」とぼくに問いかけた。
「見えへんからさわってるんや」
なんとか、そう答えてみた。子どもの素朴な質問には、即座に答えるのが難しいものだ。あっけにとられて、思いが言葉にならないうちに、その場面がすぎさってしまうこともよくある。(中略)

今度は、「これ、なに書いてあるの?」と、点字のキャプションのことを聞いているらしい。「これはね」と指で読み聞かせていると、次は、「これは?」と、どうも活字の文章を読めと言っているようだった。
「これは、おっちゃんには読めへん」と言うと、
「見えへんの、かわいそうやなあ」と返してきた。これはたいへん、見えないのが“かわいそう”なんて思われては、ぼくが“かわいそうな人間”になってしまう。あわてた。(中略)

ぼくは気をとりなおし、もう一度この『虹』をしっかり手の中におさめ、頭の中で形を再現できるまでさわり続けた。冷たくて気もちいい、石で作られた虹の橋をたどっていくと、雨に出会い、さらに上へ手を伸ばすと、雲が手にさわれる。
子どもの頃、みんなが「虹が出てる!」と言っているのを聞いて、虹の方向を一生懸命見ようとするのだが、なんとなく見えるような気もするけど、本当には見えていなかった。その時に見えなかった虹を、ぼくは手の中に包み込んで、ほっとした気分になって美術館を後にした。

当時、美術作品はぼくにとって、ひとつの安らぎであったのかもしれない。しかし、「安らぎ」なんて言葉を、頑として拒絶していたので、美術こそ、新しい価値観をぼくの中に持ち込んでくれるものと信じていた。そしてそれは、半分ぐらい真実だった。

最近は、見えなくても、文字による情報は、かなり入ってくるようになった。コンピュータの発達により、パソコンが文字を読み上げてくれるようになり、テキストデータのやりとりには苦労しなくなった。しかし、画像情報は圧倒的に不足している。そういう感覚的な部分で、新しいもの、自分の生活経験では得られないものを、吸収していく手段が視覚障害者には少ない。だから、こういう美術展に出かけて、かたちのおもしろさに触れたり、コンセプチャルな表現に出会うのは、とても重要だ。

あのときさわった「虹」のかたちは、ぼくの中に染み込んでしまったように思う。その水脈は、いまのぼくの描く大きな作品の根底に流れているのかもしれない。

■密かな思い
震災の明くる年、96年、県立千葉盲の生徒作品や、おっとさんの作品などをさわった。ぼくも粘土造形をしたり、ラインテープで描くようになっていた。そして、密かな野心が芽生えた。美術館で、作品を発表できるようになりたいなあ、と思った。そんなこと考えても、無理やなあと思い、打ち消してはみたが、だれにも告げない秘密の野心として存在し続けた。

98年秋、「アート・ナウ ’98ほとばしる表現力−『アウトサイダー・アート』の断面」という展覧会に出品。いよいよ美術館での発表のチャンスだ。しかし、さまざまな障害者の圧倒的な表現力の中で、ぼくの絵は、埋もれてしまっているように感じた。まだまだ、自分の絵のよさも客観的に評価できず、自信もなかったのだ。

このごろ、あのときの「アート・ナウ」で見ましたよ、という話を聞くことがある。見てくれている人は、ちゃんといるものだと改めて喜びを感じる。続けて描いていてこその喜びだ。

■収蔵庫に入る
02年、新築された兵庫県立美術館で、「光島貴之がみる近代彫刻」という展覧会を、「美術の中のかたち」で企画してもらった。収蔵庫に入り、多数の作品をさわった。その中から、ぼくの感覚を呼び覚ますようなブロンズを選んだ。それをモチーフにしてぼくなりの平面を制作した。そして、それらをブロンズと一緒に展示したのだ。

いつかこの展覧会で、ぼくの作品が展示されたらいいなあと思ってきたことが10年越しに現実のこととなった。なんと幸せなことだろう。1人の鑑賞者であるぼくが、作り手となって美術館の箱を満たす役割を果たした。

■空間を埋めるつぶつぶ
今回訪れた「美術の中のかたち」は、「杉浦隆夫『みんな手探り』」というこれまた刺激的な展示になっていた。ぼくは、いつの間にか1人の鑑賞者から作家になってしまい、おまけにこのようなエッセイを書いている。それに伴って、鑑賞の方法もずいぶん変わってきた。美術館巡りをし始めた頃、さわることがすべてだった。しかし、さわれないものも世の中にたくさんあることを実感し、言葉による鑑賞も試みるようになった。なんでもさわれればいいという時代は終わった。さわるだけの企画展は、姿を消していった。

「美術の中のかたち」は、さわるということだけに突出した企画ではないだろう。だからこそ毎年継続されてきたと思う。さわるという感覚が、五感の1つとしてあたりまえに評価され、アートにおいてもそれなりの役割を果たしてほしい。もちろん、美術から遠ざけられてきた障害者に配慮した展覧会であり続けてほしいのはいうまでもない。

最後に、今回の展示の感想を書いてこの文章を終わりにしたい。
さわる企画なので、受付で腕時計や、指輪などを外すように言われるのはあたりまえだが、今年は、ウエストポーチやポケットの中のもの、携帯などもすべて受付に預け、さらに、ポケットにガムテープで目張りをするという厳重な準備が必要なのである。なぜなら、スチロールの粒が服の中に入り込まないように、あるいは、持ち物をプールの中に落としてしまわないようにするためだ。

緩やかなスロープを上り、折り返して下りのスロープを行くと、途中から、水ではなくて、発泡スチロールの粒状の球体がさわさわと足下から増加してくる。発泡スチロールのプールに入るのだ。普通の水のプールでは、見えていないと水の動きが分からない。ところが、このつぶつぶのプールでは、普段は感じられない水の動きがぼくにも分かる。進む前方のつぶつぶが盛り上がり、背後のつぶつぶが低くなっていくのがさわって分かるのだ。水の動きも瞬時にはこういう風に見えるのだろうか。

暫く行くと、ブロンズの作品が沈んでいる。どれもさわったことがあるものばかりだ。知るが故のつらさ。ぼくがワクワクするために、財政難ではありましょうが、新しい作品を所蔵してください!!とつぶやいてみた。

そんなことを言っているどころではない。新しい発見があった。ぼくが描いたフォートリエの『トルソ』は、つぶつぶに包まれて、すごくやさしい作品になっていた。ムーアの『母子像』や、関根伸夫の『メビウスの環』などは、その空間の部分、つまり腕と体幹の間や、環の中につぶつぶが充満していて、その空間を意識することができた。

普通にさわっていると、空間にはなにもないので、その存在感は伝わってこない。見えていると、抜けている部分の印象が、ハッキリ意識されるのだろうが、さわっていると、手が素通りして次の部分に飛んでいく。空間の認識があいまいになる。手の滑りをつぶつぶが遮ってくれると、意識を空間にとどめてくれる。

おもしろい!!もしかしたら造形の空間認識を新しいやり方で試してみられそうな気がしてきた。つぶつぶはなくても、ゆっくり手を動かしてみたら、空間を認識できるかもしれない。

(みつしま・たかゆき/美術家)
1954年京都市生まれ。先天性緑内障のため、10歳の頃に視力を失う。
1995年頃から「さわる絵画」の制作を開始し、国内外の美術館、ギャラリーで多数の展覧会を開催している。

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